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【3.バックグラウンドと回顧録】

 これから気象予報士を目指す方の参考として、私自身の簡単な略歴のご紹介と回顧録をお話したいと思います。気象予報士の受験資格は特段の縛りはないので、別にこの経歴でないといけないとかいうことはありません。あくまでご参考です。

 

 ここからは、回顧録的内容で冗長ですので、お急ぎの方は次の章へお進みください。(笑)

 

 私は、小学生のころからテレビやラジオなどを分解して遊ぶのが大好きでした。何故音や映像が出るのだろう?なんでこんな部品が必要なんだろう?などと勿論知識なんてありませんので、自分なりの解釈をして楽しんでいたのです。

 そんなある日、誕生日かなにかのプレゼントで親に電子回路のキットを買ってもらい、それにはまりました。それは、盤面にトランジスタ、抵抗、コンデンサ、太陽電池などがセットされていて、各々の部品の両端に金属の小さなバネが付いており、短い導線で決められた通りに繋ぐと、拡声器になったり、ラジオになったりするものでした。それがたまらなく面白くて一日中そのキットで遊んでいました。

 中学生になると、自然とそのような理系が好きな友人と遊ぶようになり、公共機関や企業が運営する科学博物館などによく行きました。その中のひとりにアマチュア無線をやっている知り合い(年上です)がいる友人(T君とします)がいました。ある日T君とともにその方の家に遊びに行き、アマチュア無線の面白さを目の当たりにすることになったのです。

 何が面白かったかというと、遠方の人とその場にいたままコミュニケーションできること、コミュニケーションするために通信機器を自作していること、などなど。中学生の私にとって胸躍る一瞬でした。

 それからです。アマチュア無線は、国家資格を取得して無線局の申請をして初めて始められるので、夢中でアマチュア無線技士免許の取得の勉強を始めたのです。中学校では到底習わない「無線工学」、「無線法規」を参考書を買ってもらって始めました。学校の勉強などそっちのけ、というか適当にやって一生懸命勉強しました。真空管の構造やトランジスタ回路などの勉強がとても新鮮で面白かったのを思い出します。

 勉強開始から半年くらいで無茶っぽいですがこの国家試験を受験しました。今でも思い出します。場所は、東京の蒲田駅の近くにある「日本電子工学院」(現:日本工学院専門学校)でした。あのころは、今と違って飲み込みが早く、記憶力もあったのだと思います。全てが記述式の問題でしたが、なんと一発で合格してしまいました。勿論前出のT君とあと1名も合格していました。合格葉書を受け取った時の感動は今も忘れません。

 合格後、無線局の申請をしてコールサインが与えられます(JH1◆◆◆でした)。これがまたたまらなく嬉しかったものです。コールサイン(呼び出し符号)とは、無線局の識別ができるようにするための符号で、電波を出している放送局には必ずコールサインがあります。例えば、

NHK第一は、JOAK、文化放送は、JOQR、ニッポン放送は、JOLFなど。

 無線局を開局しましたが、最初は「高1中2」(高周波増幅1段、中間周波増幅2段の構成の

受信機)と称される受信機や、発信回路を発信する手前で増幅率を最大化した超再生受信機などを製作。もっぱら先輩の方々や外国の通信を傍受していました。受信機の製作に当たり、部品の購入は、今でも有名な秋葉原の電気街に通いました。ラジオ会館という名前だったでしょうか、間口1~2mほどの極小の部品店がハモニカのように並んだ一種独特の雰囲気のある場所でした。

 しばらくは受信専門だったのですが、やはり無線局の免許があるので電波を出したくなります。その頃は、電波型式がA3 (振幅変調,現A3E) 主流の時代からA3J (振幅変調,単側波帯抑圧搬送波(SSB),現J3E) へ移行している時代で、A3Jの送信機の自作はさすがに中学生にはハードルが高く、親にお願いして市販の送信機を購入してもらいました。ただ八木アンテナは自作してアパートの屋上に設置しました。周波数が21Mhz帯用なのでテレビの八木アンテナと違って巨大です。エレメントひとつの長さが3~4mあったと思います。それを鉄パイプとアルミパイプを駆使して自作しました。これでようやく交信ができる状態になり、国内、海外含めて沢山の方々と交信して更新記録のカードを交換したものです。

 さて、その後高校進学の際、高専も考えたのですが、結局普通高校へ進学。ごくごく一般的な高校生活を送りました。無線もやってはいましたが、生活の中での比率は下がり、ギターなどの音楽系の趣味を持つようになりました。大学進学の際には、やはり文系は考えられなくて理工学部へ進学し、電気工学科に入学。もうそのころには無線より音楽に興味が移り、サークルへ入ってバンド活動に熱中。大学でもあまり勉強はしなかったのですが、それでも単位は3年生までにほぼ取得して4年生では卒論を残すだけとし、バンドとアルバイトの日々を送っていました。その頃のバンドのメンバとは今でも交流があって私の宝物になっています。

 4年生の秋だったでしょうか、就活をやったのですが危機的な就職難、冬の時代で、なかなか決まらず卒論の研究室の恩師、K先生の勧めもあって大学院へ進むことにしました。3月に受験して理工学研究科電気工学専攻に合格しK先生の研究室に入りました。研究内容は、電気というより数学に近いものでした。修士前期課程に2年通って修了。K先生には大学に残るよう勧められたのですが、親もいい年になっていて就職を選択。そのころには就職冬の時代も少し緩み、大学院の推薦も取って、某電気通信メーカーへ無事就職しました。

 大学受験で一浪し、大学院にも行きましたので、就職した時には25歳になっていて、同期のみんなは皆年下という状況でした。各種通信機器の開発職(エンジニア)として会社生活が始まり、27歳で結婚。29歳で第1子、32歳で第2子に恵まれ、34歳で管理職、その後開発部門、国内営業部門を経て、2度(通算5年)の海外出向も経験。36年勤務し、目出度く2015年12月にリタイアしました。

 以上の経歴からおわかりになるかと思いますが、気象予報士に関係する熱力学系、地学系は、全くの畑違い。特に力学は、苦手分野で大学入試でも物理ではなく化学で受験したほど。でも気象の勉強はかえって新鮮に感じました。

 わからない事をとことん調べて徐々に解明してゆくのは一種の快感ですね。学科一般の範囲では式の変換がわからず思わず高校の数学(ⅡB、Ⅲ)の参考書を買ってしまいました。また、慣れない単位もあるので式の等号の左右で単位系が合っているかなども検証したり、積の微分、三角関数の変換などとても懐かしく思い出しながら勉強しました。

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